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物言わぬ雄弁者の群れ〜シゲチャンランド〜(4)

ライター:ねこん


霧雨は何時しかボツボツと本降りに…。
屋根を葺くトタン板に雨音が凛とした空間に打ち付け、
さながら滝の傍らにいるような音景(?)。

雨降りの庭は美しい。
ガーデン誌のロックガーデンやウッドデッキ、旅行誌の露天風呂の岩等…
一度雨上がりのように濡らすと絵が映えるそうです。
土砂降りや梅雨の長雨では困ったものだが、庭の花や木も
生気を養うように雨に打たれて小刻みに踊る…。
とかく雨の日は憂鬱になりがちだが
静かに何かを見つめているにはある種、趣がある。

雨音意外に何も聞こえないようなランドの中、
時折、静寂を切るかのようにほっぺを飴でふくらました子どもが
雨の中、キツネかウサギのように走っていく。
ビデオのファインダー越しに周りを見ていたので
いつの間にか家族はランド内で離散していた。


【赤子は笑い、老婆は拝む】
これはシゲチャンランドのコピーです。
シンプルでいて奥が深く、何かしら謎かけの様な。
老婆と赤子は『大人と子ども』『空想派と理論派』等々
置き換えることもできるでしょう。
シゲチャンランドにも、ここなそこなに宗教的イメージがある。
これは画家・作家には誰しも見え隠れするところがあり、
宗教をテーマとする画家もいるので珍しい表現でもないのだが、
『シゲチャンランド』における「宗教感」とは─

1.右・左手ハウス:内部にそびえ立つ仏壇というか
祠状の作品=インドのガネーシア信者宅の祭壇もこのように
建て増しした様な飾り付けのものを見たことがあるが、そんな印象。

2.口ハウス:旧サイロが赤く塗られ、ストゥーパ(仏舎利塔)のイメージ。
暗い内部で一様に天を仰ぎ見る「なのなの族」。
その視線の先にはまばゆい光をバックに降臨する「なのなの救世主」が。

3.鼻ハウス:ココさんの貝のタペストリーと向かい合うように配置した
(意図的に向かい合わせたそうです)シゲチャンの木の実の作品。
これが曼荼羅のイメージ。曼荼羅は本来、胎蔵界と金剛界の対になるそうですが、
この向かい合う2点は並び的にどちらも胎蔵界。
これは誕生と輪廻をイメージする海と山の曼荼羅です。

4.頭ハウス:入って右の壁一面にひときわカラフルな奴等が並び、金剛界曼荼羅の様。

5.目ハウス:白い壁をバックに仏像が並んでいる様でお寺のイメージ(ご本尊が酔っ払っています。)…等々


子どもを持って、始めにその子なりの「心」を最も感じたのは
「笑顔」です。(生まれて数ヶ月は泣いてばっかりだから)
子ども達のコミュニケーションは「笑顔」で始まる。だから「赤子は笑う」のです。

昔話に登場する神々(神がかった存在やもののけ)は
子ども達と遊んだり、遊ぶのを望む、あるいは子どもっぽい悪戯をする。
そして子ども達は何時も一番、神に近い場所にいることになっている。
子どもを表現する「純真無垢」はどこか「空即是色」(あらゆる事物は
実体がない『空』であるが実体がないということがそのまま一切の事物『色』なのである)
に通じているように思います。

では、老婆は何故に拝むのか─?
老婆は何でも拝む。アニミズム云々の解釈は別として
老木も巨石も太陽も何時も出会う人も拝む。
それは信心だけにこだわらない敬意・感謝・尊重
そして愛情を暗に内包した老婆の心であり、
人としてのあるべき真理ではないだろうか。

それは正に「赤子の笑い」とイコールであり、本質は異なっても
それは嘘偽りのない「心」からの接触なのです。
故に「赤子は笑い、老婆は拝む。」は、「赤子と老婆」ではなく
「赤子から老婆」となり、ゆえに此処は万人の心の解放区なのです。
この大げさな深読みで「赤子は笑い、老婆は拝む。」に真理的を感じるのです。

貴方も「シゲチャンランド」で「笑い」か「拝み」で心を開放しているのことでしょう。
大変ですよ。一歩、歩むごとに赤子になったり、老婆になったりと…
自分が自分でなくなるぐらい心がグルグルして、
自分が信じられないくらい「見て」しまうんですから…

それは既に貴方が自身のドアを開けてしまい、
それっとばかりに入ってきた「やつら」が心の中の引出しを
あれこれ開け回ってしまっているんですね。
その感覚が忘れられなくて、私もリピーターになったわけです。
気分はほとんど里帰りに近いかな…

そのころ、うちの那由多はヘッドハウスのMacで
シゲチャンランドのHPを見て、ひとりで騒いでいる。
 「これ、さっきいた!これー!」
其処は此処だっつーの…。
ちなみに7歳の今でもシゲチャンランドしか見てないな…

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